思い出の効能
他の人のブログを読むのは存外楽しく、最近はブログ巡りが趣味の一つとなりつつある。ブログ中毒なる疾患があるとすれば、立派なブログ中毒者になりつつあるのかもしれない。
あるブログのアーカイブを見ていたら、ブログ主さんが過去の話をしていた。
中学校時代の思い出。
これがまあ、いい記事だった。
筆者の感性や文章力の成せる技でもあるのだろう。
読者本人の懐古的な感情も相まって、ブレンドされた感覚は至高の一品と化した。(なにを言っているのだ、僕は)
思い出というものは、時に華々しく、時に厄介だ。
というか僕の場合、思い出というものはだいたい心をしくしくさせるものであったりする。思い出によって救われるとか、そういったことはあまり無い。
「ああ、あの時辛かったなあ」というようなことをよく思い出す。
しかし今回、面白いブログを読んだことでちょっと考えることがあった。
思い出というものはひょっとしたら、物語なのかも知れないと考えた。
過去の事実を覚えているのではない。ある程度、自分の中で物語化されたものが記憶として残っているのではないか。
時に楽しい物語として、時に悲しい物語として、脳みそのどこかに保存されている。
だから、過去について語り合うときに認識のズレが生じたりもする。
同じ時間の、同じ事実について話し合っているのに、Aさんは悲しい物語として、Bさんは楽しい物語として記憶しているから、両者の間でその時の感情が一致しない。
A「え、あの時ずごい悲しかったよね!」
B「いや、私は心中すごい笑ってたよ」
というようなことが起こる。
まあ当たり前だ。事実と感情は別のものなのだから。
工夫次第だが、過去の思い出は、うまく語れば良質な物語になる。
表現を工夫すれば、人を楽しませたりすることもできる。
上手な言葉で構成された思い出話は、誰かの心に影響を与えることができる。
当人にとっては辛い、悲しい思い出が、誰かの肥やしになったりもする。
そんな時、思い出は一つ昇華しているとも考えられないか。
また、これは高度な技なのかも知れないが、辛い思い出などを面白い物語として再構成してみる、というのもありだ。そして人を笑わせる。
芸人さんなどがよくやっている技かも知れない。
これが、思い出というものの効用かも知れない。
辛い思い出や悲しい思い出は、ついつい重く抱えてしまいがちだ。重くて当たり前なのだが、その質量に自分が押しつぶされてしまうのは、良くない。
しかし、いつかその思い出が物語としてうまく機能する可能性があるのだとすれば、救いがある。
思い出に苦しまされることが多かったとしたら、それを上手く物語ってしまうというのも手なのかも知れない。そう思った。
もちろん、時間をかけて、自分の中で上手で消化できるタイミングが来てからでいいのだけれど。